こんにちは、関数です。
今回のスニペットは「塊」です。
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「みてこれ。なにこれ」
それを、美波がその小さな掌に乗せて来た。五歳の女の子の手にも収まる程度の大きさであり、五歳の女の子が手に収める程度には気味悪くも怖ろしくもない外見の、何かの塊である。
一般に、見えない物は謎めいた物である。しかし、今まさに眼前にくっきりとあからさまに見えているにもかかわらずやっぱり謎だ、という物もある。それが謎である原因は、当方の知識が不足しているか、人類に未知の物体であるか、のいずれかだということになる。
子供にものを訊ねられて答えに困るとき、実際困ってしまうのが父親であり、ちっとも困りゃしないのが母親である。物事に関して、正しいか正しくないかだけを気にするのが男であり、好ましいか好ましくないかだけを気にするのが女だからである。私は父親だから、困った。何かの塊としか言いようがない。
何かの塊は私の掌に移った。途端に小さく見えるようになったその何かの塊を、私も美波も熱心に観察している。仕方ないから、それをどこで拾ったのか訊いてみると、
「あっち」
美波の指先に合わせて、私の顔と美波の顔とが同時にそっちを向いた。
ぞんざいに刈り整えられた灌木がある。まず目に入るのはそれだが、美波はあっちと指さしただけである。そちらの辺りには屑籠もあるし、ベンチもあるし、地面もあるし、通行人もあるし、通行人に連れられた犬もある。何かの塊が、どこに落ちていたのかまでは分からない。
あっちの穿鑿はどうでも良いことにして、改めてこっちに注目した。見れば見るほど、何かの塊である。美波が要求したから、何かの塊を返してやった。何かの塊は再び美波の掌に収まって、何かの塊然として転がっている。
「なにこれ」
きれいともすてきとも言わず、いやだともへんなのとも言わず、美波はまたそう呟いた。私もじつに同感である。つまり、珍奇でも平凡でもない、優美でも醜悪でもない、ごく大雑把な第一印象評価さえも下せない。それほどの、何かの塊である。
美波はいつもは軽はずみに好き嫌いを表明する性格で、その美波をして、なにこれと唯だ言わしむるばかりなのだった。全く人はそのような場合において、なにこれと呟いてみせるほかないだろう。それから美波は、その何かの塊に興味を喪って投げ棄てた。
美波が拾って棄てたその何かの塊がまさか、タリンチャムの危機を救うためオングポンポから遣わされたイパラグシーゼだったとは、私もそのときは知らなかったのだ。
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この短い話はこれでおしまいですが、
しかし言語の鎖は連なる。
次回のスニペットは「通行人」でお送りします。
※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載
こんにちは、関数です。
今回のスニペットは「箴言」です。
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しきりに警句を吐きたがるという種類の人がいる。名言工場である、格言スプリンクラーである、箴言人間である。彼はつまりサービス精神旺盛で、いつもどこか芝居掛っているのであって、それゆえに芝居をやるには向かなそうであって、ナルシストの気配があって、知識欲旺盛で、相対主義者である。
説明は分かったがそりゃ一体どんな奴だとお思いなら、船戸三樹夫に実際会ってご覧になるといい。
決して付合いにくい種類の人間ではないからご安心下されたい。得々と偉そうなことばかり語り散らして相手を辟易させるような性格ではない。ちょっとは辟易するかも知れないが、些細な欠点ならば誰にもある。彼はむしろ常に控え目な態度を保つ。一見そう感じられる。
「失礼ながらお仕事は何を」
「鉄を流しています。そのお尋ねが失礼とは思いません」
「おやこれは失礼、あっとまた失礼が出てしまって。ええその、鉄を、流す、というのは」
「商社でして。工場じゃありません、真っ赤に溶けたやつを流すのじゃなく」
「ああ、それはつまり」
「ええもう冷えて堅くなっているやつを、右から左に流すのです。不思議なものでしてね、モノを右から左に流すと、カネになるのです」
「ほう」
「不思議じゃありませんか」
「いやあ、まあ、需要と供給ってやつでしょうな」
「そうですね。それから、もっと不思議なことがありますでしょう。カネを右から左に流すと」
「なるほど、それもカネになる」
「ええ。不健康ですね。カネが自分勝手に増殖する、言ってみればハウリングです。だから金融業、マネーゲームで成功した人が喋るのを聞いているとどうも、耳を塞ぎたくなるものなんですね」
「ははあ」
「私も似たような人間ですが。鉄の塊を流しているのと、成功してないのが違うだけです。いえ、雇われ人の成功というのがそもそも不可能です」
「やあ、そうですかでも、出世して取締役とか」
「確かにそれも一つの成功ですね、箱庭の中での。出世も結構ですが、出てみたら世は箱庭とは滑稽じゃありませんか」
「なるほど。男たるもの、一国一城の主になるに限ると」
「いや創業社長になったところできっと同じです。社長は雇われ人です」
「ほう、そりゃまたどういった」
「誰に雇われるのかと言えば、法人に雇われています。この法人というやつが正体不明の怪物で、どこからやって来たのか。サラリーマン生活二十年やってみてもやっぱり正体不明です」
酒場で偶然会ったおっさん二人の会話としては、なかなか上出来の部類である。ニッポンの中年男性は酒を呑んでもまだ仕事の話ばかりする、それしか話題の手持ちがないらしい、ということで悪評高いが、このくらいの会話なら及第点だろう。
船戸はおそらく、わざと変な喋り方をしている。そのほうが下らないお喋りのひとときとして面白いはずだというサービス精神なのである。だがそれを、何だか薄気味悪いと感じる人もいる。それはそれで仕方ない。
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この短い話はこれでおしまいですが、
しかし言語の鎖は連なる。
次回のスニペットは「塊」でお送りします。
※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載
こんにちは、関数です。
今回のスニペットは「中華鍋」です。
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女は喰い物のことばかり考えている。
そう言うと、たちまち女に顰蹙される。だが顰蹙しつつ、今日のお夕飯どうしようかしらと考えているらしい。テレビを見ても雑誌を見ても、主婦向け情報コンテンツと言えば喰い物だらけである。さらに理想的なのは「おいしく食べて、キレイになる」だろうか。
といった趣旨のことを話してみたら、そうそう、そういうことじゃ頭悪そうに見えるのも当り前よねと頷いて笑う女が現れた。俺は驚いた。女は気を悪くした様子もなくにこにこしている。ちょっとこの女の気を悪くしてやろうと企んで話したのに当てが外れた。
それから女は、喰い物のことばかり考える女はなぜ喰い物のことばかり考えるのかを言下に断じてみせた。曰く、情緒を安定させてくれる何よりのものが《食》だから。
俺はますます驚いた。その種の、暴言にも近いような箴言を発明して面白がるのは男と、相場が決っている。そうねえ、ああこの間ね、たとえば、何だろう、たぶん、分からないけど、誰々が言ってたんだけど、そうだ思い出した、と真綿で首式に話を練り上げてゆくのが女人一般の話術である。それがどうだこの女は。
女性における食を定義付けた女は、どうかしら、という顔つきで静かに微笑んでいる。女はにこにこする、俺はあたふたする、これは何とも具合の悪い状況である。それでつい俺は、中華鍋が、と口走ってしまった。
まだ女は淑やかに唇を閉じている。そうして目で促している。俺はどうしても中華鍋の先を続けねばならなくなった。いや、何と言うのか、まとまらないんだけど、言ってみればね、きっと、と俺は今や崩壊寸前である。何が中華鍋だ。
確かに俺の脳裡に、中華鍋が、ごろりと閃いたのだった。つるりとしている。じつに単純なる構造の物体である。それがどうも端倪すべからざる奥行きを備えているようでもある。小海老やらチンゲン菜やら炒めて大火事みたいになっている様子を彷彿するせいか。そうして目前の中華鍋は冷然と、つるつるしている。一見して凡庸な者こそが只者でない。
といった趣旨のことを俺は怖る怖る話した。何も怖れることはないのに怖る怖る話してみた。女はちょいと首を傾げ、そうして曰く、そうねこれ美味しいよね、私も意外とこういうの好き、海老も。
女と俺はその中華料理店を出た。時刻は昼の十二時半過ぎである。オフィスに戻らねばならないが、戻りたくない気がした。
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この短い話はこれでおしまいですが、
しかし言語の鎖は連なる。
次回のスニペットは「箴言」でお送りします。
※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載
こんにちは、関数です。
今回のスニペットは「代金」です。
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どことなくユーモラスな犯罪というものが世間には幾つかあって、喰逃げはその一つである。あっお客さん。ちょっとお代金を。あの。おいあんた待てえ。
店主は飛び出す。中華鍋で使うあのお玉を振り廻している。犯罪者は走る。喰った直後のことで腹のこなれがさぞかし悪くなるに決まっているが、走る。昭和の戦後十数年間といった頃の世相が彷彿される。
今どき喰逃げなんてそんな莫迦者は見当らなくなったとも思えるのだがそうでない。何故か。お玉を振り廻す店主がいる式の店と、食券で先払い式の店とが混在しているからである。牛丼屋のさまざま、とだけ言えばすぐ納得できるだろう。本人としては、ついうっかりである。
ずかずか出口へ向って、あっお客様と店員に叫びかけられてハッとすることになる。恥かしい。誰でも経験があろう、とまでは言えないがしかし世間に珍しくもない椿事だろう。珍しくないから、中辻圭多もそれをやってしまった。とても恥かしかった。今日の昼間のことである。中辻は、牛丼大盛と生卵との代金五百円と少々を払って店を出た。
大声で咎められたのが恥かしいのでは、なかった。現実を混同したのが恥かしかった。目の前の事態に対して、無関心にも近い茫洋とした意識でいたことが恥かしかった。それが食事ということであるのが何より恥かしかった。生命を冒涜したように感じられたからである。
冒涜と言うなら既に、現代の食事事情には冒涜がある。産業化した食品生産の現場を見てみればそれは、怖るべき冒涜だろう。ベジタリアンが生れる素地がそこにある。中辻は牛丼をうまいと思っている。ベジタリアンになるつもりはない。それは思想信条なんてものではない。潔癖を気取るよりは罪深いほうがまだましだと感じる、ごく健全な感受性に流されているだけに過ぎない。
店を出て、こんなことをぼんやり考え込んでいた中辻は車に危うく轢かれるところだった。広くもない車道の脇に、柵のない歩道が付いていてそこを半ば上の空で歩いていた。自動車から突き出した首が、バッキャロー!と叫んで去って行った。
キの音がどうも曖昧な言い方で中辻の耳には、バッファロー!と聞えた。それで中辻の目には、広い荒野をバッファローの大群が人間など蹴散らす勢いで大移動している様子が浮んだ。轢き逃げもまた、どことなくユーモラスな犯罪と言えるだろうか。
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この短い話はこれでおしまいですが、
しかし言語の鎖は連なる。
次回のスニペットは「中華鍋」でお送りします。
※記事中の画像はウィキメディアコモンズより転載